宮崎いず美 Izumi MIYAZAKI
宮崎いず美
1994年山梨県生まれ。2016年武蔵野美術大学映像学科卒業。在学中より自身や身近なものを被写体としたシュールな写真作品をインターネット上のTumblrにて発表し、直ちに話題を呼ぶ。VICE(アメリカ)、CNN(アメリカ)、TIME(アメリカ)、リベラシオン(フランス)など数々の有力メディアにて取り上げられ、国際的に注目を浴びている。初個展「Cute & Cruel」(Wild Project Gallery 2016)をルクセンブルグで開催。日本初個展に「stand-in」(Art-U room 東京 2016)がある。プラダ財団が主催するグループ展「Give Me Yesterday」(オッセルヴァトリオ ミラノ 2016–2017)にも招聘される。
宮崎いず美、その超現実的なイメージ
宮崎いず美の作品をはじめて見た人は、微笑めばよいのか逃げ出せばよいのか分からなくなる。おかっぱ頭でこけしのような彼女の外見は、同世代の日本人女性たちとそれほど違わないのに、彼女が自分を写したポートレート写真には、人を惹きつける要素と不安にさせる要素が奇妙に並存する。
このような相反する反応が生じるのは、彼女が写真の中で決して笑わないからだろうか?それとも彼女の手の中にあるナイフのせいだろうか?作品中でクローンのごとく分裂する彼女は、スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』に出てくる双子のような、なにか不吉な印象を観る者にあたえる... と同時にそこには、多分の甘美さとユーモアも漂っている。
作品に写っている彼女は、そこに登場するUFOから落ちてきたばかりで、自分がしている事さえ分かっていないかのようだ。その顔には表情も感情も見出せない。あとはフライドポテトの雨や米の雨が降れば、物語は始まる。一枚一枚の写真は、今まさに演じられている物語のワン・カットのようで、«Kawaï»(かわいい) と «Kowai»(こわい) のあいだで揺れ動くいず美の自画像には、誰も無関心ではいられない。
自分を写しはじめたのは、誰もポーズを取ってくれなかったからだと、彼女は言う。彼女がどれほど恥ずかしがり屋で、自分にコンプレックスを抱いているかを思えば、このきっかけは逆説的でさえある。
しかし忘れてはいけないのは、彼女の作品は所謂「セルフィー」とはかけ離れたものである、という事だ。いず美は自分自身ではなく「いず美」を写真に撮る。彼女はアーティストであると同時に演出家であり、さまざまな人物に扮するモデルでもある。私がいず美の撮影現場を見た時、彼女はカメラの後ろで集中し、正確なメモを取り、ファインダーの角度を細かく調整していた。しかしひとたびレンズの前に立つと、表情は一変する。自分自身が想像した世界で「いず美」は迷子になり、超現実的な人物に変容する。一人っ子である彼女がおこなう自分との共同作業は、こうして何年間も継続され成功をおさめている。
いず美はTumblrのウェブサイトで写真を公開し有名になった。またPhotoshopを使用して画像を編集しイメージを構築する。この事は彼女を「今日的な」芸術家にしているかのようだ。しかしこれらの二つのツールが存在しなかったとしても、映画やファッションなどの分野で、彼女は自分の表現方法を獲得していただろうと思う。
人はよくいず美にこう質問する。「あなたは若者として、女性として、日本人として、何かメッセージを伝えようとしていますか?」多くの場合、彼女はNOと答える。彼女が制作のインスピレーションを得るのは、日常生活の中、たとえば出会った人や、見たり食べたりしたものからだ。とはいえどれほど自分の個人的な体験に留まろうとしても、「若い日本人女性」という固有の状況と文化は、彼女の制作活動に少なからず影響を及ぼしているだろう。
いず美の作品は、マグリットのシュルレアリスムの世界や、アレックス・プラガーの映画的演出を思わせる。またクローンのような登場人物は、やなぎみわの作品と比較されうるだろう。しかしながら彼女の写真には、確かに固有の何かがある。彼女と彼女自身、「私」と「私」の対立に由来する、固有の何かが...
ルネ・マグリットは「シュルレアリストであるということは、精神から «déjà vu»(既視感)を追放し、«le pas encore vu»(未視感)探すことだ」と言っている。この意味において宮﨑いず美は、まさしくシュルレアリストであると言える。